エッセイ

無限本屋

エッセイの呼吸93

某大学の前に医学専門の本屋がある。そこまで大きな建物ではないが、割と新しくてシックなデザインがカッコいい。

高貴な佇まいのその本屋の前を通る度に、ちょっと寄ってみようかと思う。でも医学書を立ち読みするには本自体が分厚く重たかったりするので躊躇う。

二階があるようだ。道路側に面したちょっとしたスペースにお酒が飲めるバーに置いてありそうな座高が高めの椅子が見える。角度的にハッキリと認識できないが、あの木目調の板はテーブルだろう。

図書館みたいに本の内容をしっかり座り読みしていいということか。それならばと寄ってみようと思うが、何か読んでみて気に入ってしまったらどうしよう。

医学書って基本的に高価で重くてデカい。薄くて軽い安価なものはないのか。いや、全然ないわけじゃない。でも、薄いと背表紙の幅が小さくなる。

背表紙に小さな文字で、いや何なら文字が書き込めないから背表紙に本のタイトルが書いていないものもある。当たり前だが、収納したとき手に取らないとわからなくなる。

部屋に物が増えるのは嫌だ。持ち物は把握しておきたい。パッと視線をおくって、それが何の本なのかがわかるならまだいいが、薄い本は表紙が見えるように置かないといけなくなる。

そうすると薄くて軽い安価な本を「置く」というより「飾る」という感じになる。それほど気に入る本に出会えるだろうか。

そうすると出会うために探す、それほどに熱心になれるなら良い学習ができるだろう。でも何処かで妥協してしまって無理に運命の出会いにしてしまう恐怖もある。

恐れるな、そうだ、それでこそ人生だ、かもしれないが、医学は日々進歩する。新しいエビデンスはどんどん積み上がっていく。

運命の本と出会っても、いつか開かなくなるだろう。愛着が沸くほどに使い込んだなら手放せなくなるし、そうなったら本当にインテリアとして飾ることになる。

大事に大事にした本は古くなって貴重な古書になるかもしれない。もしそうなったら自分一人のものにしておくには忍びない。然るべき所に寄贈するだろう。

まぁ、物理的な「モノ」というのは本来そういうものなのだろう。所有してもいつかは手放すときがくる。一時的に預かるということかもしれない。

所有することの本質っぽいことを想像すると、手放すときの時間と労力が面倒にも感じる。やっぱり最初から買わないのが正しいと悟る。

すると今度は、買わないと決め込んで図書館と同じような利用のしかたで2階に居座る奴、通っちゃう奴って、本屋側からすると、どうなんだろうと考える。

良い奴ならいい。将来大物にならなくても有望な医者とか、本当に必要な知識の吸収を求めている奴。頑張れって思う。

私は、頑張れって応援したくなるような奴に見えるだろうか。経験的には、基本的に舐められる。それは私に問題があるのだろうけど、うん、今日もやめておこう。

高価でもいいから医学書の電子書籍よ、もっと増えてくれ。

小さな不満を胸に、じゃあ自分が自分にできる範囲で本を作ろうと誓う。本を書くなら知識が必要だ。やっぱり本屋に入ろうか。いや、でも医学書って高価で重くてデカいし。

振り出しに戻る。

今日もユウブログに来ていただき、ありがとうございます。
本屋の前を通り過ぎる数分の思考。

  • この記事を書いた人

ユウ

人工呼吸管理が好きな臨床工学技士(ME; CE)。十数年の職務経験で、民間病院から県立、国立病院機構の急性期から慢性期医療に従事。東日本大震災の衝撃から一念発起し、米国呼吸療法士プログラムの受けるべく留学するも資金繰りに失敗して途中帰国。でも求めた知識より一緒に過ごしたグローバルかつ多職種の友達が何よりの誇り。趣味は写真。マイブームはNFT。医療・健康など少しでも役に立つ発信を心掛けます。よろしくお願いいたします。

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