北京オリンピックを見ている。スキージャンプの小林陵侑選手の金メダルが長野オリンピック以来の男子個人の金メダル獲得という快挙だ。長野五輪のダイジェスト映像も久しぶりに見て、当時の感動を思い出した。
小林選手の恩師があの葛西紀明氏って、これは実話はフィクションよりドラマチックだなと思う。葛西氏もまたソチ五輪で長野五輪以来の16年ぶりのメダル獲得をしている。すごい、スキージャンプって選手として長く現役を続けられるのか、他国の選手もベテランがけっこういらっしゃる印象だ。
一方で、高梨沙羅さんは非常に残念だ。スーツの規定違反って、本当だろうか。まったくの濡れ衣ってことでもないかもしれないけれど、そんなことあるのだろうか。初めてではないし、スタッフも選手も一流で、メダルが獲れれば何をしてもいいような倫理観で戦っていないはずだ。それでもミスはあるだろうが、もっと別のやり方がある気がする。
飛び終わってから、疑いをもって調べるのは正しいのだろうか。
すべての選手を調べてはいられないだろうが、見たくない涙を見てしまったことが、見る側も辛い気持ちになる。規定に違反していないか、方法を検討してほしい。
それでも、頑張っている人の姿を見るのは総じて面白い。脚本のない結末にドラマが生まれる。本気じゃない人はオリンピックの舞台にいない。何かに一生懸命打ち込む姿が美しいと思えるのは、昨日今日だけを頑張ったわけではない、自分だけのストーリーを歩んできたからだ。
自分のためだけの涙、自分のためだけの失敗、自分のためだけの悔しさ、自分に向き合った葛藤を繰り返して、自分にしかできないパフォーマンスが生まれる。そしてそれは自分と関わるいろんな人の手助けがないと引き出されないものだ。だから感謝の気持ちが当たり前に言葉になるんだろう。
私の仕事は何かの表彰台があるだろうか。そこに進みたいのだろうか。結果がハッキリする方が取り組みやすい。漠然とした目標はあるが、何が何でもというほどでもなく、形がハッキリしない。没頭できることがあると辛いけれど楽だ。
なぜ板を足にくっつけてジャンプ台から空を飛ぶのか、いかに遠くまで飛んで、きれいな姿勢を保ちつつ着地を決めるのか、そんなことを真剣に考えてしまったら終わりだ。なぜを問うのは不毛だ。
ただ、ただただ、やるだけだ。
今日もユウブログに来ていただき、ありがとうございます。
ライト兄弟は晩年、特許の裁判で空に羽ばたくどころじゃなくなった。