日本筋ジストロフィー協会から会報「一日も早くNo.325」が届いた。2ページ目の理事長だより「弱者の一滴」というエッセイが興味深かった。一滴の意味するところは涙であり、哀感の涙であることのこと。下記一部引用する。
「子供が筋ジストロフィーの診断を受けた時の驚きと悲しみは言葉には表せないほどのものでした。当時の医学書には20歳までに命を終えると書かれていましたから、気持ちが委縮したままでした。」
日本筋ジストロフィー協会「一日も早くNo.325」弱者の一滴
今日では、根治術は確立してはいないものの、人工呼吸器などの医療機器の発達やお薬による対症療法等によって、成人を迎えられることも多く、その先10年以上の人生を全うされることも珍しくなくなってきた。
私は臨床工学技士として微力ながら治療に携わらせていただいたが、患者さんやそのご家族と関わるとき、正直あまり弱者としてみてこなかったように思う。何をもって弱者かという話にもなりそうだが、逆に疾患によらず患者さんは誰もか弱者だ。では医療者は強者なのか、そんな認識もないが対等とも違うように思う。
ではなにか、それは人として共に生きるものでしかないと思う。仕事としてはもちろん職務として求められるパフォーマンスを届けはするが、令和の時代を生きる同士だ。どんなに周りから成功者だと羨まれる人でも弱い部分はきっとあるし、自身は弱者だと感じていることも少なくない気がする。私自身、健康上に不安を抱えているわけではないが、社会的には弱者といえるだろう。
誰もが弱者であると思う。でも、その個人の弱さはおそらく当人にしかわかりえないものだ。同じ境遇であっても、自分の気持ちと他者の気持ちが100%満足に共感することは極めて稀だと思う。感情の程は自分自身にしかわからない。ただ、サピエンス全史によると我々ホモサピエンスの発展は情報の共有であり、共感であるという。
立場や世代が異なっても、出発点における気持ちの共感はできずとも、同じミッションを遂げるまでの道程を目指す気持ちは共感できるかもしれない。病がなかった時代などなかったはずだから。いくつものバトンを繋いで現代まできた。そして一日も早く、すべての解決を願い、私は私にできることをやる。そう考えている人は私以外にもたくさんいるから、続いてゆく。
今日も「ユウブログ」に来てくれて、ありがとうございます。
運命はときに容赦ない。でもきっと無駄な出来事ではない、と信じることにしている。