エッセイ

定年退職後に仕事におけるキャリアを後悔しても、きっと親しい人からは立派だと思われている

エッセイの呼吸32

私がこどもの時、今よりもっと合理的に物事を考えていた気がする。「もっとこうした方が効率が良くない?」とか「目的と方法がちぐはぐじゃない?」とか疑問符がよぎることが多かった気がする。でも、データを集めるのって時間かかるし、統計の知識はないようなのものだったし、何より何かを変えることの熱量が無いことの方が多かった。

歳を重ねるにつれて、合理性よりも理屈じゃない情熱に重きを置いてきた気がする。それは今も良いことのように感じているけれど、そもそも合理性の精度が低かったと思う。判断が早すぎたりしたかもしれない。天秤にかけるような段階に至る前に決断したこともあった気がする。その中で幸福に感じたこともあるから、全否定したり深い後悔はないのだけれど、合理性が幸福もつくることを忘れてはいけないと思う。いや、人は大事なことであっても忘れがちだから、困難に直面する度にしっかり思い出さないといけない。

小学生のときに道徳か何かの授業で、適職テストみたいなのがあった。数十個の質問に回答して性格診断されて、向いている職業の例が判定されるみたいな感じだった。題材としてはなんか面白かったなって感情は記憶にあるけれど、結果はまったく覚えてない。何を根拠に適職とかいわれているんだろうと思ったに違いない。天職かどうかも実際にやってみないとわからないことが多いから、事前に把握するのは難しい。夢見がちでもなかったように思う。

ただ漠然としては、大企業の社長とかお金持ちになりたいみたいな発想はなかったと思う。それは家庭が大金持ちではなかったけれども、ごくふつうに不自由なく暮らせていたからだと思う。生活苦なく育ててもらった。その点は両親に感謝している。いろんな苦労もあっただろうと思うけれど、心理的不安なく過ごさせてもらった。

人が最期に後悔しがちなこととして、仕事をしすぎたとかキャリアをもっと考えればよかったとか、仕事について振り返るらしい。対人関係についても考えるようだが、仕事が人生の幸福に大きく作用するらしい。まだ健在の両親がこれから何を想うかはわからないけれど、子供である私としては働き続けてくれてありがとうでしかない。

高校生くらいのときに、父が仕事のことで苦しんでいたことがあった記憶がある。当時はあまり重要なこととして気にならないかったけれど、今思えば、やり抜くことも才能だなと思う。もちろん努力も含んでいるとは思う。仕事が適職かどうかは置いておいて、クオリティーはどうあれ、貫くことは簡単なことではない。

では、貫かなければいけないかというと、そうではないと思う。選択肢があるなら、曲がろうが流されようと構わないと思う。個人がどう思おうが評価するのは周りだという一面がある。とすると、会社で父がどう思われていたかは知らないけれど、どう思われていようと子供としては、お疲れ様です、働いてくれてありがとうだ。生活レベルが下がることなく育ててもらった。

今日もユウブログに来ていただき、ありがとうございます。
そんな社会人としてまだまだ半人前な私、今一度、適職ってなんだろうと模索中です。

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