エッセイ

築地本願寺に参拝してきた【オシャレ寺】

築地本願寺参拝

10代の頃の気持ち、20代の頃の気持ち、今の気持ち、時間の流れ方が変わるからか、経験がそうさせるのか、変わるものだと俯瞰で思う。

街も変わる。小学生のときの通学路、地元の駅、慣れ親しんだ場所は新しいものになっていく。その一方で廃れ変わる場所もきっとある。そこに普段は目が行かない。

先日、築地本願寺に行った。何年も前にも行ったことがある。築地本願寺自体、かなりアバンギャルドな変化を遂げたお寺さんだ。オシャレ過ぎる併設のカフェは大変賑わっていて、観光客もチラホラ見受けられた。

本堂には、参拝カードなるものが置いてあり、素敵な文字が書かれている。月替りで色や文字が変わり、昨年度と一昨年度のものが額に入れられて飾られていた。その中の1つが、こころにササった。

出会いは人生を豊かにし、別れは人生を深くする。

学生の頃は、嫌でも出会いがある。そう、嫌な奴とも出会うからそれが特別に感じることはなかった。もちろん分かち合えた素晴らしい人たちの出会いはありがたいものだった。でも、その中での別れは必然であって、仕方ない、そういうものだという感覚だった。

時を重ねると、出会いは義務でなくなる。そうすると、その中の出会いは特別に感じがちということかもしれない。別れは、必然と思いたくないのかもしれない。それらが、何気ないことが特別に、なんでもない言葉に愁うようになる。

その一方で、コミュニケーションが面倒に思うこともある。どんな形であれ、いつかは別れるから関係性を築くことにためらうということではなく、良くも悪くも嫌われていいというか、自分という人間性の良し悪しがわかってくるからなのか、得意じゃないところで頑張っても、たいして結果は変わらないという感覚かもしれない。

コミュ力が高い人は、仮に面倒であっても面倒だと伝わらないような接し方もできる人なんだろうと思う。面倒だし、本当に忙しいから、申し訳な気で嫌な印象を与えることなく、適度にそのレンジを使いこなせる人なんだろう。

私は、最近よく気を遣われている。疲弊している感が伝わっているのだと思うし、実際に疲弊していると伝えてもいるからだと思う。たいしたことはしていないのだけど、目標がないからかな。自己分析では、夢とか目標とか、何もないわけではないけれど、どうしても叶えたいかを問われると、今は頑張ろうという気力がない。

そんな中で、たいしたことないことをしているから、モチベーション低く、メンタルが弱っているように見えるのだろう。

今この場を離れて、誰かの別れの人になったとき、私はその人の人生を深くするだろうか。今の私には分からない。

旅先で出会った人をたまに思い出すことがある。数分しか話していない、でも、こころに残る人たちがいる。すぐには難しいけれど、まだ同じ場所にいるなら、会いに行って感謝を伝えるのもいいか。

何年も先の目標を立てるといいかもしれない。5年、10年とかかるざっくりとした目標を。そこから逆算すれば、やるべきことが見えてくる。足元ばかり見て歩いていても、目的地にはたどり着けないからなぁ。

エモいな笑。

今日もユウブログに来ていただき、ありがとうございます。
ポエマーになろうかな笑。

  • この記事を書いた人

ユウ

人工呼吸管理が好きな臨床工学技士(ME; CE)。十数年の職務経験で、民間病院から県立、国立病院機構の急性期から慢性期医療に従事。東日本大震災の衝撃から一念発起し、米国呼吸療法士プログラムの受けるべく留学するも資金繰りに失敗して途中帰国。でも求めた知識より一緒に過ごしたグローバルかつ多職種の友達が何よりの誇り。趣味は写真。マイブームは禅。医療・健康など少しでも役に立つ発信を心掛けます。よろしくお願いいたします。

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